人民月報

夢はベッドでドンペリニヨン

富山湾のホタルイカ

数年前の、ちょうど今ごろの季節、居酒屋のカウンターで、ベロンベロンのおじさんの隣に座った。こちらも一人だったので言葉をかわし、今まで食べたなかで一番美味かったものの話になった。

「ダントツ、富山湾ホタルイカやな」

春先の旬の時期、現地に赴いて食したホタルイカは忘れられぬ美味だったという。

おじさんはその他にも色々喋り、ぐだぐだの足取りで帰って行った。

 

人の事は言えないが、ひでえ酔い方やな━━━

その日は、そう思って、俺も帰った。

 

数週間後、同じ店のカウンターに座ったら、隣にベロンベロンのおじさんがいた。しかし、こちらも、あちらも、気づかない。互いに前回の記憶など無いのである。二度目の初対面だ。話はおそらく前回と同じような流れをたどり、

 

「今時分やと、富山湾ホタルイカがいっちゃん美味い時期やなー」

 

あっ。

 

知ってるわこのおじさん。

富山湾ホタルイカが俺の脳のカギ穴にはまり、(おそらく俺だけ)記憶が戻り、そこからは少しだけ優位に会話を進めることができたと思う。

おじさんは、前にもましてずるずるの足取りで店を出て行った。

 

相変わらず、ひでえな━━━

そう思いながら揺れる後姿を眺めていると、俺が途中から記憶を回復した様子を見て取った、カウンターの中の大将がぼそっと言った。

「ああ見えてもあの方、校長先生なんですよ。どこの、というのは言えないですけど」

 

嘘やろ?

 

ところがこの大将は、間違ってもくだらない冗談を言うような男ではない。当時、我が家では、長女と次女が小学校に通っていた。この小学校は、新学期が始まってわりと早く、5月に運動会がある。運動会の開会式、俺はドキドキしながら校長の挨拶を待った。

子供らの小学校の校長先生は、女性だった。

とにかくあのベロンベロンのおじさんでなかった事に安堵し、しかし、市内のどこかの「学校」と呼ばれる場所の長(オサ)として、ベロンベロンのおじさんが収まっているのだなあ、と思った。が、その事はそれきり忘れてしまったし、その後あの居酒屋で、ベロンベロンのおじさん改めどこかの校長先生と隣席する事も、なかった。

 

この春、長女が中学校を卒業する。月日が経つのは早いものだ。ありがたいことに高校受験も志望校に通り、あとは卒業式を待つばかりだ。今日は、卒業アルバムを持って帰ってきた。

 

そうです皆様の予想通りです、校舎の写真をめくると次の頁には、綺麗さっぱり忘れていたホタルイカ。ご無沙汰しておりました、3年間お世話になりました。この春、長女は富山湾から巣立ちます。本当にありがとうございました。