ビールで季節を感じさせるのは、意外にむつかしい。
10年ほど前、旅行で沼津市を訪れたとき、地元のクラフトビールであるベアードビールを買うために、ある酒店に立ち寄った。ビール専門の酒店ではなく、日本酒や焼酎を主に扱う片隅に、クラフトビールのコーナーがあるような店だった。
が、こぢんまりしながらも品揃えはよく、地元ベアード以外にも、東日本のクラフトビールメーカーのボトルが複数置いてあったので、それらも何本かカゴに入れて、レジに持って行った。
レジにいた店主は、小柄で上品そうなおばちゃんだった。
おばちゃんは、俺のカゴの商品を手際よくスキャンし始めたが、メーカー「A」のボトルで手を止めて、尋ねた。
店「Aさんのビール、よく飲まれるんですか?」
俺「え、よく、ではないですけど、前に飲んだら美味しかったんで、ほかの銘柄も飲んでみたいなと。」
店「それならこれも、飲んでいただけませんか?」
と言ってレジ横の箱から取り出したのは、そのメーカーの季節限定ビールのボトルだった。
俺「試飲ボトルですか?」
店「いえ、これはほんとうは売り物なんです。」
俺「売り物。」
店「なんですが、わたしはこれ、失敗作だと思うんです。」
俺「失敗作。」
店「ご存じのとおり、Aさんはいつもはすばらしいビールを造るんです。でも、この限定ビールだけは、わたしは代金をいただける出来ではないと思うんです。」
俺「返品とかしないんですか?」
店「それをしてしまうのは簡単ですが、Aさんにもビールにも悪い気がして…。でも、試飲ボトルにしてしまって、これで初めてAさんのビールを知った人はもう二度とここのビールを買わないと思うんです。だからあなたのような、このメーカーの良さを知ってらっしゃる方に、1本づつ提供させていただいてます。」
そういうことなら、と納得して、季節限定ビールのボトルを1本、いただいた。
こんな卸店をもっているメーカーは、幸せだと思った。この店主は、間違いなく味についての感想は、もっとはっきりした表現で「A」に伝えているだろう。そのうえで発注したビールは買い取り、自ら考える最善の方法でユーザーに手渡している。
帰宅して飲んだそのビールは、店主の言うとおり、ぼやけたさえない味だった。
しかし「A」はあれから毎年この時期に、同じ名前の季節限定ビールを造りつづけているし、俺もたまに「A」のビールを買って飲んでいる。
飲むたび思い出すのはあのさえない味ではなく、小柄で上品そうなおばちゃんの顔だ。