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夢はベッドでドンペリニヨン

のび太という異質

藤子不二雄は、本人曰く「ペンペン草も生えないくらいにやり尽くした」子ども向けマンガの執筆を通じて、ひとつの偉大なフォーマットを作り上げた。のちに、「うる星やつら」「Gu-Guガンモ」「まじかる☆タルるートくん」から、「妖怪ウォッチ」「パリピ孔明」に至るまで、数々のマンガ、アニメが踏襲することになる、「ごく一般的で平凡な日常に異質がやってくる」物語のスタイルだ。

 

何の特徴もない、どちらかというと目立たないタイプの少年少女のもとへ、人間ではない「なにか」があらわれ、一種のトラブルメーカーとなって物語を転がし始めるというのが、藤子不二雄の作品に頻出するパターンだ。Fにも、Aにも、多かれ少なかれこのパターンに当てはまる作品が存在する。

 

世間一般には、そのフォーマットの最たる典型が「ドラえもん」であり、のび太こそが藤子世界の少年の象徴であるとされているように思う。

しかし、果たしてそうなのだろうか?

藤子マンガの、少年少女と、異質とのコンビを、思いつくまま列挙してみる。

 

のび太ドラえもん

正太・Q太郎

ヒロシ・怪物くん

キテレツ・コロ助

ケン一・ハットリくん

エリ・チンプイ

 

左側が「さえない少年少女」、右側が「物語を転がす異質」なのだが、のび太以外の皆は、確かにイケてる男子女子とは言いづらいが、かと言ってそんなにダメな子たちではないように思うのだ。正太、ヒロシあたりは常識と自立心が備わった子供だし、キテレツに至っては大人顔負けの専門的な特技まで持っている。キャラクター構成が違うので列挙からは省いたが、「パーマン」のみつ夫や「21エモン」のエモンなども、正義感や冒険心にあふれた立派な少年たちだと言えよう。

 

のび太だけが、例外なのだ。

上に列挙した、「ドラえもん」以外の作品は、「異質」たちが何か事を起こし、ストーリーが動き始めることが多い。「ドラえもん」だけは、ご存知の通りのび太が問題を起こして「保護者」であるドラえもんに泣きつくところから話が始まる。この作品だけ、ボケとツッコミが入れ替わってしまっている。のび太が異質で、ドラえもんが常識なのだ。その結果、のび太というキャラクターは、他の作品の少年少女よりも、はるかに下衆で、時として人の道を踏み越える事すら厭わない(金が絡むと、特にひどい)。

純粋な悪

たとえば、コロ助ゴンスケ、怪物くんあたりが非人道的行動をとったとしても、彼らは見た目や出自からしてあきらかに異質なので、読者は、まあしょうがなかろう、人間界の常識がないんだから、と、納得する。しかしのび太は、見た目だけは普通の小学生男子なので、「おいお前そんな了見のまま育ってしまったら、碌な大人にはなるまいよ」と思ってしまうのだ。そもそもコロ助たちは、大人にならないだろうし、なる必要もないのだからね。

 

さて、こののび太の保護者であり、共犯者である猫型ロボット。望むものを即座にふんだんに与えることで、子供の脳内の報酬系はどのように強化されるのか、といった事を、われわれ子を持つ親に教えてくれる反面教師だが、彼も初めからこんな諦観的で従順な態度ではなかった。コミックス10巻くらいまでの彼は、のび太の異質に、より大きな異質を被せることで、ボケの上塗りとも言うべき、収拾のつかない状況を何度も作り出してくれていた。連載後半の、役割が固定されてしまった彼とは違い、まさにギャグマンガの神髄といえる爆発力を持っていたのだ。

薬をキメたドラえもん

少し話は逸れてしまうが、アニメの声優が大山のぶ代から水田わさびに交代した時、とてもたくさんの抗議の声が寄せられたと聞く。だけど俺は、晩年の大山ドラえもんの、固定化された演技が嫌いだったので、声の慣れ不慣れよりも、型ができていない水田ドラえもんを歓迎した。同時に作画も一新され、それまでの固そうな質感のドラえもんから、本来あるべき柔らかい質感のドラえもんに変わったのは、本当にうれしかった。これが、10巻くらいまでのドラえもんだと思った。しかし皆、いつまでも声の違和感しか話題にせず、ドラえもんがつきたてのお餅みたいに柔らかくなった話をしても、全然理解してもらえなくて悲しかったことを憶えている。世間には、偉大なるマンネリを愛する心情があるのはわかっているけれども、俺はそれにノーと言い続けたい。

やわらか~い